等しさについて

等式の話

はじめに

 位相空間論をしていて時々見るおかしな記述として、X \vee Y / Y = Xがある。集合としては等しくはないだろうが(だって台集合は等しくないよね?)、まあ言いたいことはわからなくはない。なのでその場では流してたが、あとあと厳密にやろうとしたら空間の(up to homotopyでの)図式を追いかける必要がでてきてしまった。  このときは他にも等しくはないが等式で表されるような式をいくつか抑えて、なんとか行間を埋めることができた。世の中こんな感じね。まあ俺も書いたことはあると思う。
 なぜ位相同型を表す同型記号があるのにそれを使わないのだろうか。これに対する回答として、位相同型と区別したいのではないか、というのを考えた。上の例でいえば、ただの同型ではなく"自然な"同型であることを指していつでもこの方法(同型)でもって同一視するぞ、という意味を含めて等式で書いているのである。そう考えれば解決、と思っていた。
 こういう"等式じゃないのに等式で書く"奴をあげていきます。以下に挙げるものは一つの本からとってきたわけではなくて、いろいろ勉強していく中でこんなのがあるんだって心に残ったものを書いているだけ(だからソースは覚えてないです)。それからこれを書く人が数学的にでたらめを言っているということを主張したいのではありません。また主張が厳密でないということを主張したいのでもありません。実際のところ、文化や文脈に近いのかなあ(普通なのかどうかは調べてないのでわかりません)と思います。

具体例たち

  \mathbb{R} / \mathbb{Z} = S ^1 \pi_1 (S ^1 , 0) = \mathbb{Z}だって。それもイコールを使うんだ。まあ、指数写像があるし恒等射が1に行くんだってことで確かに"どの"同型で同一視するかはすぐにわかる。わかるよ。ある意味ではそれも自然だ。だからいい。メモを取るまでもなくすぐにわかるから、今後行間として問題になることはなさそう。
 代数だと  \mathbb{Z} \otimes \mathbb{Z} = \mathbb{Z} があるけど、これは一般の自然な関手から決着している。他には  \mathbb{Z} _ 2 \oplus \mathbb{Z} _ 3 = \mathbb{Z} _ 6 とかもあるけどこれでこのさき困る気はしない(位数6の群を"求めよ"で困ったことはあるが)。
 関係式で割るってなんだったんだ、と思うとき。  G = \langle a | a ^ 2 \rangle の右辺って"自由生成されたものを割る"じゃなかったか?確かに  a \in G だがそれでも等しくはなくない?いや同型はすぐにわかるけどね。みたいなとき。代数でもでてきて、「自由代数を関係式で割ったものと同型」ならわかるけど「自由代数を関係式で割ったものである」はおかしいと思います。  H ^ *(S ^ 1;\mathbb{Z}) = \mathbb{Z} \langle a \rangle / (a ^ 2) ですか。  H ^ * (X \times Y) = H ^ * (X;\mathbb{Z}) \otimes H ^ * (X;\mathbb{Z}) ですか。なるほど。「あの」同型のことねわかるわかる。等式ではないけど。わかるからいいや。
 完全対に対して定義される導来対の定義は2種類あるんだが、それらは当然"等しくはない"のに、それが等式で結ばれている本を見た。なるほど、しかしこの場合も"自然に"同型なので別にいいか。ちなみにその後で「完全対が同型ならそこから出てくるスペクトル系列も同型」みたいな当たり前のことをゼミで言うかどうか悩んだ。やればできるからやらなくてもいい感がすごいので飛ばしたが何も言われんかった。そりゃそうよね。俺は気になるんだが。気になってやったら10分よ。なんだったんだこの悩み。
 空間で言うと、 S ^n = \Sigma S ^{n-1} みたいなのも結構ある。これは結構ギリギリで  S ^n の"北極"が  \Sigma ^{n-1} の"北極"にいくことからどの同型をとるかがわかるが、どっちを"北極"と思うかの流儀があることは可能だ(なんだか言い方が変だが)。関手の自然さではないので(ないよね?)、向きとの整合性やコホモロジーの符号を考えてから話を合わせに行く。
 向き付け可能なn次元多様体  M について  H ^n(M) = \mathbb{Z}らしい。向き付きではなくて向き付け可能でそう書くのはさすがにどうだろうか。「それぞれなんか知らないけど同型が存在することと」と「一斉に同型をとること」がどの程度違うかは知らないが、この例では定理が前者に近くなっていて、定理よりって書いたときに変な問題が起きそうだ。定理から一つは存在するのでそれぞれ同型  H _ n(M \times N) \to \mathbb{Z} , H _ n(M) \to \mathbb{Z} , H _ n(N) \to \mathbb{Z} をとってそれらがどんな関係になってますか?と聞かれたら人によって符号倍違う回答が出てきてもおかしくはない。定理は同型の存在を主張しているのであって、ある写像が同型と言っているわけではないから。というか"向き付け可能"ならなおさらでは?
 数理論理学で"メタなところ"で等式を定義するとか。対象として等式を扱うときに等式を定義するのはわかるが、構文的に同一視しますなのか。でもこれは実は自分が一番何に引っかかってるのかよくわかってない。「空間」と「記号列」をアナロジーにしてしまっているから「空間から空間への射で同一視する」と「記号列から記号列への射で同一視する」を頭の中で感覚的にどうにかしようとしていて混乱した。何もそんなことは言ってないのにね。同一視するってことは同一視するってことなんだよ。まあ記号列の同型類と考えることはできるけど(記号列にアルファ同値関係を入れてそれでわったものを考えているんだ)。実際ラムダ計算ならちゃんとそうやって書いているところもありそう(でも代入のめんどくささの前に皆敗れてないか)。

等式ではなくて部分集合の記号の場合

 部分集合の記号でも似たようなことはある。今回の話の主題ではないが。   \mathbb{R} \subset \mathbb{C} は授業で  \mathbb{C} := \mathbb{R}[x]/(x ^2 + 1) と定義していたら書けないはずだが、別にいいよね。だれだってそこまで面倒を背負いたくはないし。形式的な定義ばんざい。
 でもこれの結果として自明なはずなのに10分ほど立ち止まったのが「実係数微分形式は複素微分形式かどうか」である。まあ包含が必要になることはあんまりなくて単射があれば十分なのでこれは趣味の範囲の"考察"(数学的には特に面白くもない)なんだろう。
 他には  V \wedge W \subset V \otimes W みたいなのがあるが、もし  V \wedge W を本の中で"普遍性を満たすもの"として定義していたら、ある  V , W に対しては含まれないかもしれないことを忘れていないか?"標準"として構成した  V \wedge W への自然な同型を用いて同一視します、みたいなことが暗に仮定されているのだと思う。

表示と計算の話

はじめに

 上の問題は個人的には"表示"の問題と似ているように思われる。分母を有理化するとかしないとか、0.499999と0.5とか、sin(a)cos(b)をばらすかどうかみたいな。この考えを進めていくと、そもそも同型を分類したいし同型類の中で考えているので等式で書くことはむしろ正当である、とも考えられる。これなら等式の両辺に乗せるのは構造だが等式の意味自体が変わっているのでべつにいいだろう。同型類の中でどんどん変形していこう。
 じゃあ同型類の中で考えるとどうなるのか。この場合にももやもやすることがあって、同型類の等式で書いていって得られた写像がなんなのかというのは謎になりそうという。例えば  [\mathbb{Z}] = [\mathbb{Z}] という等式から取り出した同型射  \mathbb{Z} \to \mathbb{Z} は恒等写像とは限らないので、結局図式を回すときにはどの同型なのかを考えないといけない。まあ全部なぜ同型だったかを思い出せば解決するんですが。同型類で考えるものって何があるか。

具体例達

 まず初めに出会ったのは位相空間に対する基本群  \pi_1(X) だった気がする。定義するときには基点つきに対して行ったのにどれとっても同型だからってこんな記述になってしまった。同型のとりかたは非自明(道をとるごとにしか決まらない)なはずなのに、同型類を考えるからいいのか?でもこれで困った覚えはない。不思議。なんででしょう?基本群をあまり使ってこなかったからかもしれない。
 次にあったのは「多様体  M から  n 点抜いた空間」かな(これはどうとっても同型(微分同相)であることをきちんと示すのが難しかった)。これも同型は一意には定まらないんだけど、そのことが問題になることはなかった(むしろ定義的に助かることもあって、ホモロジーとかの計算の際には点が全部ある座標に入っているとしてしまっていい)。
 でも実際「種数 g の曲面」みたいなことは自分で言ってしまっている。だってめんどくさいんだもん。どのようにして構成するかっていうのは全然考えてない。似た感じで、eilenberg-maclane 空間 は  K(\pi , n) のように書いているけど実際は up to homotopy でしか定まってないのに別にいいかって感じで書いてしまっている。どういう時に問題になるか考えないようにしているが。
 ベクトル束から内積を一つとって球面束にする場合は二つの球面束の間に標準的な奴が取れそうなので別にいいか。トム同型の話で内積の取り方によらないみたいなことをちょっとやった思い出があった気がするけど、何で必要になったんだか、覚えてない。覚えてないけどこれは楽だった気がする。他にも、同型は対称性から二つ出てくるけどどっちでとっても写像としては等しい、みたいなのもあって示すのが面白かった。
 逆に数学科に入って一番最初、有限次元ベクトル空間は全部  \mathbb{R}^n みたいなやつに同型ですっていわれて、じゃあ別にわざわざ考えなくてもいいじゃんね~~1つ基底系とればいいんだから、なんて思ったけど大間違いだった。多様体の接空間とか確かに一つの接空間は  \mathbb{R}^n に(なんか基底をとれば)同型なんだけど、全体で統一的に(連続的に?)同型を作れるかというと全然ダメじゃん。というかこれこそが等式で書くことの罠で、 TM を作りますって時に  T_pM = \mathbb{R}^n としてよいのでじゃあ  \Sigma_{p \in M} \mathbb{R} ^n だなって思ったら全然違うっていう(ことをやって、後から自分のやったことにビビった)。似た感じで多様体から orientation covering を作るのもだめだし、良い作用が入っているときには  A \cong B だからって  H ^ 1(X;A) = H ^ 1(X;B) なんて書くのは混乱のもとになる。まあ局所系とかスペクトル系列の話なんですが。局所系の同型を定義していないうえに局所系が同型な時にコホモロジーを書き換えるみたいなことをさらっとやるよね。
 初めて胞体コホモロジーを解き始めたときなんて何も考えてないもんだから、  \mathbb{Z} ^ 2 -(A)-> \mathbb{Z} ^ 2 -(B)-> \mathbb{Z} ^ 2ホモロジーを求めるときに「行列を適当に掃き出してやるんでしょ」って  \mathbb{Z} ^ 2 -(A)-> \mathbb{Z} ^ 2 -(B')-> \mathbb{Z} ^ 2 に変形しちゃったとか。本当は基底を変換しているんだから  A の方もどう変化したか計算しなきゃいけないのに。めんどくさ。
 一番気になったのは  X に 1点付け加えて  X ^ + にするみたいな操作で、やるだけなら  X ^ + = X + {X} みたいにすればいいんだけどこれだと  A ^ + \subset X ^ + ではないので  X ^ + / A ^ + と書けない(当然同一視すればできる)みたいなことがある(ゼミでは完全に構成を飛ばした。だって他にもいろいろ条件が必要そうで、全部いっぺんに満たす構成がわからんかったから)。これはでもかなり良い操作で、  X ^+ から  X ^+ への同型なんて"それ以外にありますか"ってレベルで決まっている。
 一番気になっていたけど最近解決したことは、アーベル群を求めよって言われたときに何をしたら求めたことになるのか。有限生成アーベル群の場合には構造定理があるので"表示形式"が定まっているわけだ(同型は標準的に定まっているわけではないが)。だからその意味で、同型類について調べるとか求めるという言葉が、表示形式に直すという意味になる。ちょうど素因数分解みたいに。なるほどそれで等式で書くのね。最終的に同型を取り出さないなら納得がいく。でも逆に、ホモロジー群からコホモロジー群を求めることができるので全く情報量増えてない気がするんだがなんでこんな物定義したんだっていう疑問は深まった気がする(コホモロジー環は別として)。
 ちなみに圏論でよくある普遍性による定義は結構好き。関数の間の等式(の意味)だけ理解しておけば up to isomorphism で話が進んでいく感じがあって下手に等式で書くよりはわかりやすい。もちろん等式でなんて書かなければそっちの方がわかりやすいんだが。Homを同型でどんどん移していく証明とかね。でも圏の同値とかはあまり好きじゃないかも。ベクトル空間の圏の骨格とかの話がまさにそうで、ベクトル空間を束ねてベクトル束を作りますみたいになったら同型類で考えていた話が全部壊れてしまうときがある。

 = \cong の何が違うのか

 結局  = の場合は「どの写像で」とかないはずなのに「どの写像で」が問題になる  \cong が使われているのがめんどくさいんだろうな。まあ  = でも  \cong でも証明のめんどくささはあまり変わらん気がするが。というか  = の証明って refl 一つのはずなのに  {x:A \mid P(x)} = {x:A \mid Q(x)} を示すってなったら refl じゃ済まないのなんでだ。数学難しい。
 というかこれまでのところ、数学書の等式はだいたいちゃんとしてて、おれが同じことを見よう見まねでやったら失敗しました、みたいな体験談でしかない気がする。失敗しながら学んでいくこともあるとはいえ、「どうしてこの操作がダメなのか」がわからないと同じことを繰り返してしまううえ、教科書も人も正解と証明は教えてくれるけど、この回答のどこがダメなんですか?はめんどくさい問(難しくはないが回答を読まないといけない)のであまりやってくれない。つもりつもってこんなに数学的な感覚から離れてしまった。

定義の同値性の話

はじめに

 ところで前回の話に引き続いて「等しいって何」みたいに思ったことを書くと、今度は定義の同値性の話が出てくる。 A を考えることと  B を考えることは同じです、みたいに言うとき、  A , B が同じ構造を持つなら話は早いが(前回までのやつ)、異なる構造を持つときや構造の定義だった場合にはわからん。
 一番最初に「開集合系を考えることと閉集合系を考えることは実質的に同じです」なんて言われたときは、多分受け入れてたんじゃないかな。今でもそう思うんだけど、なぜ自分がこれを許しているのかはわからん。一番初めに見たから?一番初めに見たのは三角形の合同だった気もするが。

具体例たち

 最初に例にも出した「位相を開集合系で定義する」ことと「閉集合系で定義する」ことの"同じさ"はなんだろうか。これは全単射の存在が大きい気がする(この全単射はもちろん「開集合系全体」と「閉集合系全体」の全単射)。全単射が存在するならそもそも同型を考える前の段階でさえ同一視できる気がする。群の定義も「ある元が存在して~」と「 1 \in G」と二つで定義することができるが、単位元や逆元の存在から全単射に構成できそうなのでよい。
 全単射が存在しないけど許されそうなのは、主  GL(n,\mathbb{R}) 束と n 次元ベクトル束の対応とか。 X 上の主  GL(n,\mathbb{R}) 束全体と n 次元ベクトル束全体を考えれば、1対1には対応しないが、それぞれ同型を定義して同型類の中で考えればちゃんと対応するので別にいいかってなる。対応がちゃんとした写像で書けるのもポイント高くて、いざとなったら中で図をみれば大丈夫だろうという安心感がある。まあ主束とベクトル束っていう広いくくりだとなんか微妙だけど。
 内部直和と外部直和を区別しないとかは実際のところ二つは異なる構造なのに、全く正当な理由で(ともにベクトル空間の順序対と考えて)ちゃんとした同一視ができるので大丈夫ということだった。でも外部直和だと \mathbb{Z}a \oplus \mathbb{Z}b 上の写像を行列で書くことができるのに、内部直和だと  a,b どっちが先かで行列の表示困る気がするんだけど。ああでも核も像も行列表示が変わっても同型ですもんね確かに。行列が微妙に入れ替わるのは些細な問題ですね。というか  {a_1 , \ldots , a_n} って書いたら左から順にってなるよな。 n 元集合は  1 , \ldots , n で添え字付けられた集合なんだなあ。"二つ"のベクトル空間の直和っていったらどっちが1つ目かは記号からわかるわ。
 構造ではなく構成の同値性として、群環を形式和で定義するやつと関数で定義するやつが同値っていうのはどういうことだろうか。まあ自然性なんでしょうけどね。こういう「ある構造へ構成すること」の場合は大体自然性で方が付く(型が着く?)と思う。リー群からリー代数とか(左不変ベクトル場全体vs単位元での接ベクトル空間)、多様体から微分形式とか(座標上の形式和で座標変換とcompatible vs テンソルから構成)。ところで行列群に対してリー代数を行列の中に”実現”する場合があるけど、リー代数としての同型をほとんど明らかな形で書けるからべつに気にしなくていいってことよね?
 微妙な話として、座標系関連がある。極大アトラスにかぎらない多様体の話が極大アトラスにかぎる多様体になってもいいのってなんででしょうね。「極大アトラスのみ許す多様体の全体」と「極大アトラス以外も許す多様体の分類」について、多様体の構造に関する命題が対応しあうのだろうか。もちろん微分同相類を考えるときには完全に対応することはわかるが、多様体の構造に関する命題、が何かわからないのと特に直観がないので大丈夫なことがまだわかってない。 主束も座標系を構造に含めるものと含めない二つができてしまう。この二つの定義が同値なのはなんでだろうか。わからん。

定義するとは?

 「○○を満たすものを××と呼ぶ」と「○○を××と呼ぶ」の違いが判らなくなることが時々ある。一意に定まるのかどうかの部分に近い。偶数は「2で割り切れるという性質を持つ」もので、一意には定まってない。逆に言えば偶数"全体"みたいな言い方ができる。でも「2」は「○○な性質を持つ」ものとしての定義のしかたはされていない。2"全体"みたいな言い方はできるが、あまりしない。なんかこう書くとあまりにも自明なので逆に反発してネタにしたい人がいそうなので、もう少しまじめな例を出す。「一点空間って"どれ"?」と「これは一点空間ですか?」の違いの話と言った方がわかりやすいかもしれない。どれぐらい深刻に影響を与えるかは全くわからないが、一点空間と言った時にどれくらい一意に空間を定めているのかがわからないということ。どれか一つの空間を指して一点空間と言っているのか、空間の性質として一点空間があって、一点空間自体はいくつもあるかもしれないのか。 n 点空間を n と書く、みたいに言った時に、各 n ごとに n 点空間の候補から一つ n 点空間をとるみたいなことはしたくないんだけど。
 これは「存在して」という言葉が入るとややこしくなって、「空間 X が P であるとは、ある代数構造 M が存在して  X = G \times M とかけるとき」と「空間 X が P であるとは、ある代数構造 M が存在して  X \cong G \times M が成り立つとき」と「代数構造 M に対して  G \times M を P と呼ぶ」は全然違うんだけど、定義としては同じと考えてしまってよいのか?空間の性質を述べているやり方と、どれか空間を一つ指して定義するやり方で、定義の仕方が全然違うのに。でも同型類だけを考えるのでOKですって。
 これで次数付きアーベル群の理解に関する混乱が起きて、「A が次数付きアーベル群であるとは、各 i ごとに  A _ i が存在して直和になっているものである」みたいに書かれると、「Z は次数付きアーベル群である」のか「Z は次数付きアーベル群にすることができる」のかが(一瞬だけね)わからなくなる。